雪明かりの一夜
八年前に別れた恋人と、雪深い温泉宿で偶然の再会を果たした女。仲居として働く彼と、一夜だけの客として泊まる彼女。降り積もる雪の静けさの中、消えたはずの熱がふたたび灯る大人の再会譚。
雪は昼過ぎから降り始め、夕方には宿の屋根を白く覆っていた。
沙也加は仕事を辞めた足で、思いつくままに切符を買った。行き先は、学生時代に一度だけ訪れた東北の温泉宿。あの頃の記憶はもう色褪せていたはずなのに、雪の匂いを嗅いだ瞬間、体のどこかがそれを覚えていることに気づかされた。八年という歳月は、思い出をぼかすには十分でも、消し去るには足りなかったらしい。
チェックインの帳場に立っていたのは、記憶よりも少し肩幅の広くなった男だった。
「……悟くん」
「沙也加」
八年ぶりに呼ばれた名前は、宿の暖かい空気の中で、驚くほど自然に馴染んだ。悟はこの宿の跡取り息子だった。大学を卒業してすぐに実家へ戻ると聞いたのが、二人が別れた理由のひとつだった。東京に残る沙也加と、雪国に帰る悟。どちらも譲らず、そのまま連絡が途絶えた。あの頃の沙也加には、雪国で暮らす自分がどうしても想像できなかったし、悟もまた、無理に引き止める言葉を持たなかった。
「今夜、部屋を担当するのが自分だとは思わなかった」
悟は帳場の奥で小さく笑った。仲居頭を任されているのだと、廊下を歩きながら教えてくれた。若旦那と呼ばれる立場になったこと、母親が体を悪くして厨房を退いたこと、八年分の近況が、雪見障子の並ぶ廊下の分だけ語られた。沙也加は相槌を打ちながら、自分がここに来た偶然を、まだうまく受け止められずにいた。
部屋に案内されると、悟は火鉢に炭を足し、茶を淹れた。所作のひとつひとつに、旅館の跡取りとしての年月が滲んでいた。沙也加はその手つきを、少し眩しいものを見るように眺めていた。
「露天、今夜は貸切にできる。誰も予約が入ってない」
「案内してくれるの」
「仲居の仕事だから」
その言い方に、昔と変わらない意地の張り方を見つけて、沙也加はつい笑ってしまった。
夕食の膳は、悟の母の代わりに悟自身が選んだのだと、給仕にきた若い仲居が教えてくれた。山菜と川魚と、沙也加が学生時代に好んでいた甘めの出汁巻き玉子。細かなことを覚えている律儀さに、胸の奥が少しだけ疼いた。膳を下げに来た悟に、沙也加はつい聞いてしまった。
「出汁巻き、覚えてたんだ」
「客の好みを覚えるのも、仕事のうち」
「それだけ?」
悟は答えず、盆を持ったまま部屋を出て行った。その背中を見送りながら、沙也加は八年前の自分たちが、まだこの宿のどこかに残っているような気がした。
膳を片付け終えた頃、悟はもう一度部屋に戻ってきた。今度は仕事用の絣ではなく、私服のセーターに着替えていた。
「休憩、もらった。少しだけなら」
「若旦那が抜け出していいの」
「抜け出すんじゃない。案内するだけだ」
そう言って悟が差し出したのは、宿の裏手にある展望台への鍵だった。冬の間だけ雪見のために開放される、小さな東屋がその先にあるのだという。沙也加は迷わず立ち上がり、借りた綿入れ半纏を羽織った。雪の積もった渡り廊下を、二人並んで歩いた。会話は途切れがちだったが、その沈黙は、八年前の気まずさとは違う、どこか穏やかなものだった。
東屋から見下ろす宿の灯りは、雪の中でにじんだように滲んでいた。悟は手すりに寄りかかり、白い息を吐きながら言った。
「東京での八年、どうだった」
「忙しかった。振り返る暇もないくらい」
「じゃあ、今夜は振り返る夜にすればいい」
「そういうこと言うところ、変わってないね」
「変わらない方が、たぶん、あんたには都合がいいんだろう」
沙也加は何も返せなかった。雪明かりに浮かぶ悟の横顔は、記憶の中よりも少しだけ大人びていて、それがかえって、八年という時間の実感を強くした。
夕食の後、悟は本当に露天風呂へ案内した。雪はまだ降り続いていて、湯気の向こうに舞い落ちる白が、灯籠の明かりに照らされてゆっくりと沈んでいく。誰もいない湯殿の入り口で、悟は一度足を止めた。
「今夜だけ、客じゃなくていい」
その言葉の意味を、沙也加はすぐには聞き返さなかった。ただ、雪明かりの中に立つ悟の輪郭を見つめた。八年前、東京行きの夜行バスの窓越しに見た背中と、同じ角度で肩が落ちていた。
「あの時、ちゃんと引き止めてくれたら、違ったのかな」
「今さらそれを言うのは、卑怯だと思わないか」
「思う。だから言わない」
雪がひとひら、悟の肩に落ちて消えた。沙也加は手を伸ばし、それを払うふりをして、指先で肩に触れた。八年という時間の重さを、その一瞬で量ることはできなかったけれど、二人ともそれ以上言葉を探さなかった。
「湯、冷めるよ」
「冷めたら、また沸かせばいい。仲居さんの仕事でしょう」
悟は苦い顔で笑い、それから沙也加の手を取って、暖簾の内側へと促した。灯籠の火が雪に滲み、湯気が二人の輪郭をやわらかく溶かしていく。降り積もる雪の音のない静けさの中で、二人の間にあった八年分の距離が、少しずつ埋まっていくのが分かった。
——夜が深くなる。雪はやまず、宿の灯りがひとつ、またひとつと落ちていく中で、二人の声だけが、誰にも聞かれることなく雪の音に混じっていった。障子越しの灯りは、明け方近くまで細く灯り続けていたという。
翌朝、沙也加が目を覚ますと、悟はすでに廊下の雪かきをしていた。窓を開けると、澄んだ冷気と一緒に、雪を踏む音が聞こえてくる。布団の温もりの中に、まだ昨夜の余韻が残っていて、沙也加はしばらく起き上がれなかった。
「今日、東京に戻るのか」
「まだ決めてない。次の仕事も、決めてないし」
「なら」悟は雪かきの手を止めずに言った。「もう少し、長逗留してもいいんじゃないか。宿代は、仲居割引にしてやる」
「昔からそういう、へたな誘い方するよね」
「上手い誘い方を知らないんだ、生憎」
沙也加は障子を閉め、火鉢の前に座り直した。窓の外では、雪はまだ、白鷺の里を静かに埋めていく。八年前とは違う理由で、今度はもう少し、ここに留まってみようと思った。仕事も、住む場所も、何も決まっていない今の自分になら、それができる気がした。
朝食の膳を運んできた悟に、沙也加は「もう三泊、延ばせる?」と聞いた。悟は帳場に確認するふりをして、わざと間を置いてから頷いた。その間の長さに、八年前と同じ悟の癖を見つけて、沙也加はまた笑ってしまった。
「延ばした分の宿代、ちゃんと払うから」
「割引の話は、なかったことにしたのか」
「仲居割引の意味、まだよく分かってないから。今夜、もう一度教えてもらう」
悟は苦笑いを浮かべたまま、盆を持って部屋を出て行こうとした。その袖を、沙也加はふと引き止めた。
「ねえ、悟くん。今度は、ちゃんと言葉にしてから、決めよう。八年前みたいに、黙って離れるんじゃなくて」
悟は振り返り、少しの間、雪の匂いのする窓の外を見ていた。それから、ようやく短く頷いた。
「ああ。今度は、ちゃんと言葉にする」
窓の外では、雪はまだ、白鷺の里を静かに埋めていく。八年前とは違う理由で、今度はもう少し、ここに留まってみようと思った。仕事も、住む場所も、何も決まっていない今の自分になら、それができる気がした。雪はまだ、当分やみそうになかった。
(了)