古書店の合鍵
深夜零時まで灯る古書店の店主と、週に一度だけ現れる常連客の女。売り物にしない稀覯本を特別に貸し出す代わりに交わされる、貸出票をめぐる静かな駆け引き。本の余白に隠された、大人ふたりの官能譚。
その古書店は、看板に「二十四時」とだけ書かれていた。実際には深夜零時に閉まるのだが、店主の太一はいつも、常連客が来る木曜だけ扉を開けたままにしている。
芹香が店に通うようになって、そろそろ一年になる。目当ては、売り物の棚には並ばない一冊——太一が個人的に集めている稀覯本の中の、フランス装の詩集だった。売ってはくれない代わりに、太一は独自の貸出票を作り、一週間だけ貸し出すという妙な取引を許していた。最初は単なる本好き同士の物々交換のようなものだったのが、いつからか、木曜の夜だけの、名前のない約束事に変わっていた。
「今週の分、返しに来ました」
木曜の夜十一時、芹香は雨に濡れた傘を畳みながら言った。カウンターの奥で、太一は貸出票の日付を確かめる。
「一日、遅れてる」
「読み終わらなかったから」
「言い訳が下手ですね、芹香さん」
太一はそう言いながらも、貸出票に判を押した。この判子を押す瞬間だけ、太一の指先がわずかに長く紙の上に留まることに、芹香はとうに気づいていた。指先の癖ひとつを、一年かけて読み解いてきたようなものだった。
「今週は、次はどれを貸してくれるんですか」
「決めてない。でも」太一は本棚の奥、鍵のかかったガラス戸を振り返った。「芹香さんが読みたいものより、私が読ませたいものの方が、そろそろ多くなってきた」
「それは、私の好みを疑ってるってことですか」
「いや」太一はガラス戸の鍵を回した。「あなたの好みを、少し試したくなっただけです」
取り出したのは、詩集ではなく、古い手紙の束が挟まった随筆集だった。前の持ち主が余白に書き込んだ、誰宛てとも知れない言葉の数々。太一はそれを、あえて貸出票に記入しないまま、芹香の手に押しつけるように渡した。
「これは、貸出票なしですか」
「貸出票のいらない本もある」
「返さなくていいってこと?」
「返しに来る理由にはなる」
芹香はその答えに、思わず声を立てて笑った。店主にしては、ずいぶん回りくどい誘い方だと思った。けれど一年かけて、この店主の回りくどさこそが、自分を引き止め続けてきたのだとも気づいていた。ほかの誰かとの約束より、木曜の夜十一時をいつも優先してしまう理由も、たぶんそこにあった。
思えば最初の頃は、こんな会話すらなかった。芹香が詩集を求めて棚を巡っていたとき、太一はただカウンターの奥で本の虫食いを直していただけだった。声をかけたのは芹香からで、返ってきたのは素っ気ない一言だけ。それが、いつの間にか、木曜の夜だけ交わされる長い会話に変わっていた。誰が最初にその変化を望んだのか、二人とも、正確には覚えていない。
「今日は珍しく、饒舌ですね」芹香が言うと、太一はレジの引き出しをわざと音を立てて閉めた。
「雨の日は、口数が増える。湿気で本の紙が反るのと、たぶん同じ理由です」
「それ、私に対しても?」
「あなたに対しては、少し別の理由もある気がしますが」
芹香はその言い方を、いつものように聞き流すことができなかった。
閉店の札を裏返すと、太一は珈琲を二つ淹れた。読書灯だけが灯る店の奥、木の匂いと紙の匂いに包まれて、二人はしばらく無言で向き合った。カウンターの上に置かれた随筆集の余白には、誰かの筆跡で「またここに戻ってきてほしい」とだけ書かれていた。芹香はその一文を指でなぞった。
「太一さんは、なんで私にだけ貸すんですか。売り物じゃない本を」
「単純な理由ですよ」太一はカップを置いた。「あなたが本を、大切に扱う人だから」
「それだけ?」
「それだけで、十分でしょう」
「私は、十分だと思ったことない。太一さんの答え、いつも半分だけ」
太一は珍しく黙り込んだ。カウンターの上の随筆集を、指先でそっと閉じる。
「半分は、言葉にすると安っぽくなる気がして」
「安っぽくてもいいから、聞きたい」
雨の音が、店の硝子戸を叩いていた。芹香は随筆集を胸に抱いたまま、太一との距離を一歩詰めた。太一は逃げなかった。ただ、貸出票の綴りをそっとカウンターの端に押しやり、代わりに芹香の手を取った。指先に、紙の乾いた感触が残っていた。
「今夜だけは」太一は言った。「貸すんじゃなくて、渡したい」
——夜が深くなる。読書灯がひとつ落とされ、雨の音だけが店に満ちていく。古い紙の匂いに混じって、二人の吐息が、やがて言葉より静かなものに変わっていった。棚の本たちは、いつものように何も語らず、それを見届けていた。
明け方、芹香は随筆集を鞄にしまいながら、貸出票の綴りを見つめた。太一は珈琲のカップを片付けながら、何も言わずにその視線に気づいていた。
「次の木曜も、来ます」
「待ってます」太一は少しだけ笑った。「貸出票、忘れずに」
「今夜の分は、書いてくれないんですか」
「今夜のことは」太一は本棚の鍵を閉めながら言った。「帳簿には、つけないことにしてる」
「じゃあ、代わりに私が覚えておきます。ずっと」
太一は少し驚いた顔をしてから、いつもより長く目を細めて笑った。
「覚えておくって、貸出票よりも、ずいぶん頼りない台帳ですね」
「頼りないから、ちゃんと返しに来る理由になるでしょう」
「言い返し方まで、私に似てきた」
太一はそう言って、カウンターの隅にあった小さな真鍮の鍵を、芹香の手のひらに乗せた。ガラス戸の鍵だった。
「これは」
「木曜以外の日も、店の裏から入れる合鍵です。稀覯本の棚に、勝手に触っていいとは言いませんが」
「じゃあ、何のために」
「あなたが来たい時に、来られるように」
芹香は鍵を握りしめたまま、しばらく言葉を探した。それは貸出票よりも、随筆集の余白の一文よりも、ずっと分かりやすい言葉だった。
芹香は雨上がりの街に出た。傘はもう要らなかった。木曜まで、あと七日——けれど今夜からは、その七日を律儀に数える必要すらないのかもしれないと思った。随筆集の余白の言葉を、何度も読み返すことになるだろうと思いながら、握りしめた合鍵の重みを、コートのポケットの中で確かめた。店の灯りは、芹香の背中が角を曲がるまで、消えずに残っていた。
(了)