ファンタジー

星を売る店

路地の奥にひっそりと佇む、星を売る小さな店。店主の老人が値札をつけるのは、星そのものではなく、それを見上げた夜の記憶だった。眠れない夜を抱えた青年が扉を開けたとき、店の棚がかすかに光り始める。

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その店は、時計台の裏の路地を三度曲がった先にあった。看板はなく、ただ扉の硝子に小さく「星、あります」と書かれている。青年がその文字を見つけたのは、三日も眠れない夜が続いた後のことだった。

扉を押すと、鈴の音の代わりに、遠くで波の引くような音がした。店内は薄暗く、天井まで届く棚に、掌ほどの硝子壜がぎっしりと並んでいる。壜の中では、青白いものや、蜜柑色のものが、ゆっくりと明滅していた。

「いらっしゃい」

奥の帳場から、白髪の老人が顔を上げた。老眼鏡の奥の目は、壜の中身とよく似た色をしていた。

「星を、売っているんですか」

「正確には違うがね」老人は帳場の上の壜をひとつ、指の腹で撫でた。「売っているのは、星を見上げた夜だ。星そのものは、誰のものでもない」

青年は棚に近づいた。壜にはそれぞれ、古びた紙の値札が下がっている。値段の代わりに、短い文が書かれていた。「試験に落ちた帰り道、それでも綺麗だった冬の大三角」「産まれたばかりの妹を抱いて、父と見た流星群」「別れを決めた桟橋の、湿った南の星空」。

「これは、誰かの記憶なんですか」

「手放された記憶だよ。持ち主が、重くて持ちきれなくなったものたちだ」老人は静かに言った。「だがね、不思議なもので、手放された夜ほどよく光る」

青年は一本の壜の前で足を止めた。値札には、こうあった。「眠れなかった夜、屋上で独りで見た、名前を知らない星」。壜の中の光は、他のどれよりも小さく、頼りなく、それでいて、消えそうで消えなかった。

「これを」と青年は言った。「これを、ください」

「代金は貨幣では受け取らない」老人は首を振った。「あんたの夜をひとつ、置いていきなさい。どんな夜でもいい。ただし、本物であること」

青年は少し考えてから、話し始めた。三日前の夜のこと。眠れずに開けた窓のこと。冷えた夜気の中で、自分がこの街の誰とも繋がっていないと感じたこと。それでも夜明け前の空が、ほんの一瞬だけ、葡萄色に染まったこと。

老人は頷きながら、新しい壜に耳を近づけるようにしてそれを聞いていた。話し終える頃、壜の底には、小さな光がひとつ、生まれていた。

「確かに、頂戴した」

店を出ると、路地には朝が来ていた。青年の外套のポケットの中で、壜がかすかに温かい。その夜、青年は久しぶりに眠った。夢の中で、名前を知らない星が、屋上の少年のとなりに、ずっと座っていてくれた。

後日、青年がもう一度あの路地を訪ねると、店はもうなかった。ただ、時計台の文字盤の隅に、昨日までなかった小さな光がひとつ、増えているのだった。街の誰もそれに気づかなかったが、青年だけは、外套のポケットに手を入れて、少しだけ笑った。

眠れない夜は、それからも時々やってきた。けれど青年はもう、それを恐れなくなった。手放したくなるほど重い夜も、いつか誰かの棚で、よく光る。そう思えるようになったからだ。