サスペンス

グラスのアリバイ

老舗バーの常連客に窃盗の疑いがかけられた夜、バーテンダーは客の手元に残された一杯のロックグラス――氷の溶け具合という些細な証拠から、誰も傷つけずに真実を導き出す。後味のよい小さな推理譚。

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雑居ビルの地下にある「深夜零時」という名のバーは、看板もろくに読めないほど照明が落とされている。マスターの宗一が一人で切り盛りするその店に、刑事の高梨が飛び込んできたのは、閉店間際のことだった。

「宗一さん、悪いが少し話を聞かせてくれ」

高梨は月に一度くらい顔を出す程度の客だったが、宗一とは古い付き合いだった。彼の後ろには、青ざめた顔の男が立っていた。名前は坂下といい、こちらも週に一、二度は顔を出す常連である。

「二時間前、この近くの雑貨店で金庫破りがあった。従業員が一人、犯人ともみ合いになって突き飛ばされたが、幸い軽い打撲で済んだそうだ。目撃証言で坂下さんが疑われてる。本人は『ずっとこの店にいた』と言うんだが」

坂下の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。人を傷つけるようなことをする人間には、宗一にはとても見えなかったが、疑いというのは、そういう見立てを平気で裏切ってくることも知っていた。

坂下は震える声で言った。「本当です。九時からずっと、あそこの席で飲んでいました」

宗一は坂下が座っていた席に目をやった。カウンターの端、いつもの定位置。飲みかけのロックグラスが一つ、まだ置かれたままになっていた。


「そのグラス、片付けなくてよかったんですか」高梨が聞いた。

「お客さんが席を立ったあと、少し様子を見るのが癖でね」宗一は静かに答えた。「今夜はたまたま、片付けそびれた」

宗一はグラスを光にかざした。琥珀色のウイスキーの中で、氷が小さく溶け崩れている。

「坂下さん、このグラス、何時に注いだか覚えてます?」

「九時半くらいだったと思います。二杯目です」

宗一は目を細めた。「うちの氷は特注の丸氷でね。溶けるスピードは、室温と酒の量でほぼ決まってる。今の溶け方だと、注いでから一時間半から一時間四十五分ってところだ」

高梨が腕時計を見た。今は十一時十五分。逆算すれば、酒が注がれたのは九時半から九時四十五分の間ということになる。坂下の証言と一致していた。

「しかしそれだけじゃ、その後ずっと店にいた証明にはならないでしょう」高梨が食い下がった。「注いでもらってすぐ出て、また戻ったのかもしれない」

宗一はうなずいた。「そこなんですよ。だから、もう一つ見てほしいものがある」

高梨は腕を組み、疑わしげに宗一を見た。「氷の溶け具合なんてもの、法廷で通用する証拠じゃない。参考程度にしかならないぞ」

「分かってます」宗一は静かに答えた。「だから、もう一つ裏付けを見せます」


宗一はカウンターの下から、小さなノートを取り出した。会計の控えではなく、長年つけている「一人メモ」だった。客が来た時刻、注文した酒、交わした会話の断片が、几帳面な字で並んでいる。誰に見せるためのものでもない、ただの習慣だった。それが今夜、こんな形で役に立つとは、宗一自身も思っていなかった。

「坂下さんは九時五十分ごろ、隣の常連さんと野球の話で盛り上がってました。声が大きくて、一度たしなめたくらいです。十時十五分には、閉店間際に入ってきた別のお客さんと、傘の忘れ物のやり取りをしてる。私が代わりに傘を預かった」

宗一はページをめくった。「そのお客さんの名刺、今も引き出しにあります。連絡すれば、十時十五分に坂下さんがここにいたことを証言してくれるでしょう」

高梨は坂下と宗一を交互に見た。「金庫破りの通報があったのは十時二十分だ。現場はここから歩いて二十分はかかる」

坂下の顔が、さらに青ざめた。「その時間なら、僕はまだ……」

「落ち着いて」宗一が言葉を挟んだ。「時系列は、あなたの味方をしてる」

沈黙が流れた。氷がグラスの中で、小さな音を立てて崩れた。高梨はしばらく腕を組んだまま動かなかったが、やがてゆっくりと息を吐いた。

「九時半に酒を注がれて、十時十五分まで店にいたことが証明できるなら」高梨はゆっくりと言った。「坂下さんが現場に行くのは、物理的に無理だ」

坂下は詰めていた息を、ようやく吐き出した。「よかった……」


高梨が名刺の連絡先を控え、電話をかけるために外へ出ていったあと、坂下は宗一に頭を下げた。

「ありがとうございます、宗一さん。まさかグラス一つでここまで分かるとは」

「大したことじゃない」宗一はグラスを洗い場に運びながら言った。「あなたが毎回同じ時間に来て、同じ酒を、同じペースで飲む。それを何年も見てきただけです」

「でも、証拠なんて残そうと思って飲んでたわけじゃ」

「それでいいんです」宗一は静かに笑った。「わざとらしいアリバイより、いつも通りの一杯の方が、よっぽど信用できる」

外で、高梨が電話を切る音がした。少しして戻ってきた彼の表情は、来たときよりずっと和らいでいた。

「証言、取れた。それと、金庫破りの方も、防犯カメラの死角を洗い直したら別の手がかりが出てきたそうだ。犯行時刻に、坂下さんとは背格好の違う人影が映ってたらしい。坂下さん、疑って悪かった」

坂下は首を振り、それ以上何も言わなかった。ただ、カウンターに残っていた最後の一口を、ゆっくりと飲み干した。緊張が抜けたせいか、その手はまだ少し震えていた。

「宗一さん」高梨がコートを羽織りながら言った。「今度から、うちの署の若いのに、あんたの観察眼を分けてやってほしいくらいだ」

「よしてください」宗一は苦笑した。「毎晩同じ顔ぶれを見てるだけの、ただのバーテンダーですよ」

「それが一番、できないことなんだよ」

高梨はそう言い残し、雨上がりの階段を上っていった。坂下も少し遅れて席を立ち、店を出る前にもう一度、宗一に深く頭を下げた。

一人になった店内で、宗一は坂下の座っていた席を静かに拭いた。カウンターに残った水滴が、丸い染みを作っていた。ちょうど、あのロックグラスが置かれていた場所だった。

宗一は新しいグラスに、丸い氷を一つ落とした。氷が澄んだ音を立てて回る。今夜もまた、誰にも気づかれないまま、静かに時間を計り続けるグラスが一つ、カウンターに置かれた。